前田氏を統制下に置いた家康は、次なるターゲットを陸奥会津若松城主である上杉景勝へと定めた。景勝は1597年にそれまでの本拠であった越後から陸奥会津へ加増転封となり、帰国を機に領内の整備に取り掛かっていた。具体的には会津神指城の新築を始め、領内における支城群の整備・修築、橋梁や道路の整備、前田利益(慶次)・上泉泰綱らの新規の召抱えなどである。見方によっては単なる新領地への仕置きであるが、家康はこれを「謀反の準備」と見なした。さらに戸沢政盛や堀秀治が「景勝に不穏な動きあり」と家康に通報、そして上杉氏重臣であった藤田信吉が上杉氏を出奔して家康に景勝に逆心ありと訴え出たことにより、景勝討伐に本腰を入れることになる。
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まず家康は加賀征伐でも使用した手である弁明の使者を送るよう景勝に命じた。しかし上杉氏の執政であった直江兼続はこれに猛然と反発、挑戦的な態度で家康を痛烈に非難した。この時に家康に宛てられた返書がいわゆる「直江状」であるが、原本がなく、言葉遣いがおかしいことなどから、現在では後世の偽書であるという考えが多数である[6]。いずれにしても上杉方からの返書を受け取った家康は直ちに会津征伐の軍を発することを全国の諸大名に命じた。この家康の動きを制すべく増田長盛・長束正家・前田玄以の三奉行、堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏[7]の三中老が出陣を思い留まるよう諫言したが家康はこれを完全無視。一気呵成に会津への出陣を目指した。